ハイデルベルク市との橋渡し―エスペラント

 昨年秋、熊本市はドイツの学術都市ハイデルベルク市との友好都市締結10周年を記念す
る行事を1週間にわたって盛大に行い、ハイデルベルク市からは大勢の訪問団が熊本市を
訪れました。エスペランチストのランゲルさん夫妻も訪問団の一行に加わって来熊しまし
たので、私たち熊本エスペラント会の会員は、ささやかな歓迎会を開きました。

 しかし、世界に名高いドイツの学術都市ハイデルベルク市と熊本市との提携に、ドイツ
語でも、また英語でもなく、実は「国際語」エスペラントが橋渡し役をしたことを、今で
は殆ど知る人がありません。熊本市の國際交流を担当する職員たちでさえ、その成立の事
情を知る者は少ない有様です。そこで、両市の提携に至るまでの秘められた裏話を、私た
ちの先輩エスペランチスト平野雅曠(まさひろ)さんの証言によって伝えたいと思います。
平野さんは当時、熊本市役所の職員でした。

 エス語が結ぶ姉妹都市

 あれからもう三十五年にもなる。昭和三十六年一月(一九六一年)坂口市長は、ヨーロ
ッパのどこかと姉妹都市になりたいが、出来れば由緒古く城がある教育都市のハイデルベ
ルク辺りがふさわしい、との意向を表明した。

 当時海外の都市と提携しているのは七十五市、計画中が二十数市もあり、中でも白鷺城
をもつ姫路市は、熊本と格好のライバルだった。私がハイデルベルクの未知のエスペラン
チストのワルテルさんに手紙を書いたのは月末のことだった。内容には――

 市長の意向。市民は殆ど貴市については未知であるが、友好関係は好ましく思っている。
私は国際的にはエス語だけ使っている。熊本市民に判り易く、貴市の状況、子供や市民
生活、観光や民話など、新聞報道に向いたものを送って欲しい。等々。

併せて本市の概略、観光案内や絵葉書などを添えて送った。そして六月末に返書が来た。


 手紙には、エス語の会合で私の手紙を披露した。そしてドイツ語に訳して、同志のエメ
リタ君が市役所の知人と話し合ったこと。私たちは市の議員たちが何か決める迄、待たね
ばならないことを記した後、戦後のハイデルベルクは昔の姿ではない、と東独からの移住
者、NATOの中心となり飛行場が出来、アメリカ人も来て、人口が十三万人にも増えた。
美しい庭園は駐車場に変り、車やバイク、飛行機や電車、ネッカル河の船などが昼夜の別
なく騒音を出し、嫌な臭気をまき散し、酸素を吸いたければ、山にでも行かねばならない、
と環境の変化を訴え、金もうけ、車を持つこと、夫婦共稼ぎなど、昔との変りようを述べ
てあった。海外種の少なかった頃で、各新聞社からは早速取材にやって来た。私は二度目
の手紙をワルテルさんへ送った。

 幾つもの新聞が貴方の手紙を主要記事の一つとして報道した。そして姉妹都市について
も市民に興味を起させた。国際語の役割を認めさせたことは申すまでもない。お互いに新
聞を利用しよう。同志のお骨折を謝す。また、もし当市が公式に申し入れた時、貴市が受
納れるか否か、前以て判れば幸いだが、など書き加えた。


 其後私共の通信はその都度各新聞に報道された。また先方からは、協力的な会員として、
カール・リンク氏が市当局と交渉していることを知らせてきた。昭和三十九年、東京オリ
ンピックの年、また私は便りを送った。その年、ドイツ政府の招きで、石坂市長が団長と
して旅行した際、ハイデルベルク市を訪れ、歓待を受けた。市長はそこでドイツ語で挨拶
をしたことが、土産の自慢話で、後で『西ドイツへの旅』を著された。そして以後、両市
長の間で手紙や写真での交流が続いたのである。

 其後二代の市長を経た平成四年(一九九二年)、田尻市長の時、両市の正式提携が交され
たのだった。時は流れ人は逝き、世間も姿を変えたが、未来は遥か。両市の一層の交流と
繁栄を希う次第である。
                  (熊本エスペラント会機関誌 Vojo Senlima,135号から)

 

  こうした蔭の努力があって初めて両市の提携が実現したわけですが、私たちは平野さん
がエスペラントを通じて実現された種々の業績を称えるために、来る5月10−11日、熊本
県婦人会館(熊本市水道町14−21)で開催される九州エスペラント大会において、平野さ
んに感謝状を贈呈して表彰しようと準備を進めております。熊本市でも、平野さんの表彰
を祝う祝電を、大会宛に送る意向だと聞いております。

 

  徳富蘆花と妻愛子ー隠れたエスペランチストたち

 九州エスペラント連盟の第77回大会が2003年5月10日(土)と11日(日)の両日、
熊本県婦人会館(熊本市水道町14−21)で開かれますが、その行事の中にはエスペラント
に訳された「彦一話」(前会長・鶴野六良訳)の会員による朗読形式での上演や、熊本が生
んだ明治・大正時代の流行作家・徳富蘆花と愛子夫人が共同で英語とエスペラントに翻訳
した二人共著の世界旅行記『日本から日本へ』(第一篇「日本から」の第一「新紀元」から
第七「潮の岬から」まで)についての発表などが含まれます。

 

 この二人の共同翻訳作業については『熊本日日新聞』(4月7日)の「新生面」に

大要次のように紹介されました。

 

 水俣生まれの作家・徳富蘆花と、菊池市出身の妻愛子は、第一次世界大戦が終わって平
和が戻った大正8年正月から1年余りをかけて船で世界一周の旅に出ましたが、彼らの旅
行記「日本から日本へ」の著者自身による未発表の翻訳(英文・エスペラント文対訳)の
コピーを宇土市のエスペランチスト野村忠綱さんが東京の記念館「蘆花恒春園」から入手
し、吉田正憲(元熊本大学文学部教授)がその両者を解読して比較できるようにしました。
(以下、「新生面」から引用)

 

▼エスペラントは万国共通語としてポーランドのザメンホフが考案、平和思想と人道主
義が結びついて流行した。蘆花の旅行記には「夜八時半、…講演の会場になる食堂に行く。
気象台技師大さん(大石和三郎)のEsperanto講義がある」と出てくる▼で、肝心の訳文
だが「エスペラントは学習中で、まだ下手。単語をきちんと引かず英語から類推したよう
な箇所がある」と吉田さん。後半は字体が変わり「愛子さんが訳した部分もありそう」と
推理▼エスペランチスト蘆花―についての本格研究はなく中野好夫の名著「蘆花徳富健次
郎」も触れていない。「これだけまとまったエスペラント文を残した文豪は少ない。多才な
蘆花の一側面として光を当てたい」と野村さん▼ちなみに熱心なクリスチャンの蘆花は「平
和の使者」の信念で旅に出た。エルサレムからウィルソン米大統領にもパリ講和会議の成
功を願うメッセージを送ったが、八十四年後の米国はイラク戦のさなかだ。

 

 大石という人は当時高層気象台の技師で、アメリカ出張からの帰途、蘆花夫妻と同じ春
洋丸という船に乗り合わせましたが、後に日本エスペラント学会の理事長を勤めました。

 

 この講演を聞いて蘆花夫妻は「少しはやりかけて其まヽになつて居る」萬国語(国際共通
語)に新たな関心を掻き立てられ、「四海一家春を呼ばう私共がのつて居る春洋丸」でエス
ペラントの話を聞くという巡り合わせを「洵に嬉しいものであつた」と述べています。(『蘆花
全集』第14巻356ページ)


 蘆花夫妻の共同翻訳についての発表は熊本エスペラント会の吉田が担当し、発表時間は
11日14:10から約30分を予定しています。蘆花文学に関心をお持ちの方は、どうぞ聞き
に来て下さい。

 

 なお不明な点がありましたら、熊本エスペラント会事務局へお問合せ下さい。

戻る